第10章 別れ9月1日朝、ホテル前で朝の様子を撮影。(もしかしたら連行されるという思いをしながら)沢山人がいる通りとそうでない通りの差が激しい。みんな、がんばってください。 女性公安官が信号をしている。夏は1時間交替らしい。しかし、この暑いなか大変である。ご苦労様。 最近、平壌では屋台が流行っているそうで、「寄ってみたい」というと「それじゃ、一緒に行きましょう」といいながら行けないまま。朝は、屋台が始まっていない。または、始まりつつある。 そうしていると、昨夜、RさんとMさんから紹介してくれた来年入社予定の女性ガイド(現在大学生)が私のところにやってきて、「写真を撮って送ってくれませんか」といわれ、承諾をする。 9時にホテルを出発。なにやら大きい三角形状のホテルに行きたいといったが、近くにも寄ってくれなかった。「ここから写真を撮りなさい」と。まだ完成されていないが、それは日本せいだという。日本が戦後補償をしてくれることを予定して(?)つくっていたが、くれないので途中で工事はストップ!「早くください」だって!? 主体思想塔に上るが、これまた高い。1人20中国元(4人で80元?1000円くらい)朝が早いので霞がかかっていて遠くまで見ることができない。「この地に一体何人の日本人拉致被害者がいるのだろう!?」と思わずにはいられなかった。そんなことを思いながら目の前で火事が発生した。Rさんが「写真は撮らないように」という。 11時。あのジェンキンスさんが平壌を出るときの生放送で放送された平壌空港の出発待合室。・・・・・ただ思うだけ・・・・・・。北朝鮮の人たちは純朴な田舎者。それを上手く利用しているのが、北朝鮮政府、金正日ではないだろうか。決して怖い国、怖い国民ではない。しかし、そう思わせているのは支配者・・・。 12時51分、離陸。思い多くして北朝鮮を去った。上空からの北朝鮮。それは、青々とした緑が続く。川が見える。アレは、脱北者立ちが越える豆満江か?いろいろな思いをはせる。 武田鉄矢の歌に『思えば遠くに来たもんだ』というのがあるが、そんな思いをしているってまだ、幸せなんだろう。 次回、『北朝鮮編』最終回。 大きなアクシデントが待ち受けている!? 9月1日 高麗航空で、瀋陽に到着したのは、北朝鮮時間13:30。 あの「脱北」で知られた地。私の同僚の奥さんは、瀋陽出身。話を聞くと、「脱北」前からたくさんあって最近のことではないらしい。やはり、マスコミに取り上げられたり、拉致被害者の家族が拉致問題運動を起こさない限り、私たちは全くの無知かもしれなかったのでは・・・。 14:05、瀋陽発NH948便。大連へ。と思っていたら、大連で軍事練習をしているので民間機が飛べない状態になっている。出発はいつになるか分からない。「困った。明日の仕事に間に合わないかもしれない。行ったところが北朝鮮だけに、予定道理に返らないと拉致されたように思われてもいけない。(*_*) 15:35、やっと飛行機に乗れた。当然乗り心地は悪い。なぜって! 関西国際空港(KIX)に着いても、徳島行きのバスがもう時刻表だと補とんと可能性は0なんです。仕方なく、CA(キャピタル・アテンダント。客室乗務員のことで、以前は「スチュアーデス」と呼んでいた)に、事情を話すと、「無理でしょう」関空に着いてもバスに乗るだけの時間がありません」とあっさり。しかし、ここで燃えた。『鳴かぬなら、鳴かせてみようホトドギス作戦』だ。 17:10、大連にまずは到着。「大連、大都~会。今度こ来よ~。軍事基地もあるし、おもしろそうだ」 18:20、再び、飛行機へ。 ここから、JTM(日本標準時)で語る。 20:16にKIXに到着予定。バスは20:15発。このバスに乗れなかったら帰るのは、明日。マズイ! 飛行機は予定より少し早く20:10着陸。急いで、前に行く。CAに、「バスに乗り遅れるから!」といって、すぐに飛び出す。 敵がいた。それは、『イミグレーション』「バスに乗り遅れるから!」といって、3人ほどゴボウ抜き(というより、勝手に前に行く)そして、「早くしてくれ~~~~、バスに乗り遅れる!!!!」というと10秒で終わった。 気分は“走れ、メロス!”KIXから出て、バス停へ。“走れ、走れ、走れ、コウタロ~” 20:15、バスに乗った。瞬間、バスが出発!!!どうだ、CA参ったか! たった5分で、飛行機から、バス停まで行ったド~~~~~ <それから・・・> 10月、法務局より、役人がやってきた。 「向こうで、日本人と接しましたか?」 「いいえ。」 「特に赤軍の連中がホテルに来ることはありませんでしたか?」 「いいえ」 「主体思想研究会と出くわしたか?」 「会いましたよ。顔は覚えていますよ」・・・・・・・ 「なぜ、僕が北朝鮮に行ったことが分かったのですか?」 「それはいえません。」 「写真を貸してくれませんか?日本人が写っているかもしれないので。」「どうぞ。」 2005年11月3日、北川和美さんが北朝鮮から帰ってきた。朝日新聞へジャンプ RさんもMさんも言っていました。「帰したいのに、日本政府が引き取ってくれない。“本人が行きたい”といって、いってのだから。しかし、あの人のおかげで、北朝鮮はもっと印象が悪くなった」と。 皆様、ありがとうございました。これで、『世界の大地で~北朝鮮編~』を終了させていただきます。 |